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『荘子』内篇で出逢った、言葉のごちそう 7選

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課題図書『荘子 I』とマインドマップ

2ヶ月ぶりに参加した読書会「人間塾」で、感じたこと、考えたこと。1週間たって改めて整理しておきたい。
(写真は、課題図書と読書会で描いたマインドマップ)

人間塾in東京 『荘子 I』に学ぶ読書会

参加したのは「5月28日 第52回人間塾in東京『荘子Ⅰ』に学ぶ読書会(東京都) 」。

中国、戦国時代の思想家 荘子(そうし)こと荘周(以下、荘周)が書き記したとされる『荘子』(そうじ)*1。全33篇のうち、内篇7つと外篇10を収めた『荘子(1)』(中公クラシックス)が読書会の課題図書だった。


万物斉同の境地

荘子の教えとして、一番にでてくるのは「万物斉同」(ばんぶつせいどう)というキーワードである。訳者・森三樹三郎さんの解説にはこんな風に記述されている。

万物斉同の立場をもっともわかりやすく説明しているおは、この毛嬙(もうしょう)、麗姫(りき)の話である。このふたりは人間に対してだけ美人として現れるのであり、人間以外の動物に対しては、美としての価値をもたない。同様に、是非善悪などの価値も、人間に対してだけ存在するものであり、その意味で相対的なものである。もし人間という限定された立場を離れるならば、これらの価値の差別はたちまち消失し、そこには美醜もなく善悪もない、絶対の世界が現れる。これが万物斉同の境地である。(p61)


是非、美醜、善悪などの対立は人間の主観が生みだしたものであり、万物斉同の境地とは、「何ものにもとらわれない立場」をいう、と p.71 でも解説されている。

(余談)オバマ大統領の広島でのスピーチ

「何ごとにもとらわれない心」、「是非善悪を越えた境地」という記述から、読書会前日にオバマ大統領がおこなった広島でのスピーチを思い浮かべた参加者も多かった。このタイミングで『荘子』をみなで読めたのも、何かのご縁かも。

『荘子』内篇から7つのキーワード

話を『荘子』に戻そう。

物語や会話を多く含むため人名が多く、ときには孔子や儒教の教えを批判する場面もでてきた『荘子』。読書会では「読みづらかった」「受け入れられなかった」という意見を何人もから聞いた。僕は、根が単純なのかすでに枯れているのか、けっこう素直に腹に落ちてきた(翻訳者・森 三樹三郎さんの解説にずいぶん助けられ、翻弄もされたけど。笑)

特に、荘周本人が書いたと言われる内篇には、心に響くキーワードが多くあった。そのなかから7つを以下に挙げた。

鯤と鵬

鯤(こん)と鵬(ほう)はいずれも伝説上の巨大な生き物。鯤は北のはての暗い海にすむ大魚で、その鯤が化身して鳥になって鵬になり、南の海を目指すのだという。

斉諧というのは、世にも怪奇な物語を多く知っている人間であるが、かれは次のように述べている。「鵬が南のはての海に移ろうとするときは、翼をひらいて三千里にわたる水面をうち、立ちのぼる旋風(つむじかぜ)に羽ばたきながら、九万里の高さに上昇する。こうして飛び続けること六月(むつき)、はじめて到着して憩うものである」(p.4:第一 逍遥遊篇)

「遊」の思想は『荘子』の最も中心的な思想の1つ。それを強く感じたのが、この大魚・鯤と巨鳥・鵬の話だった。

昔の中国では1里=約435mらしいので、「三千里の翼」といえば日本の本州を覆うくらいの大きさ! それが雄大に飛んでいく姿というのは圧巻だ。何ものにもとらわれず、真の道にむかって進む大鵬のイメージが心に強くやきついた。

真宰

 もし喜怒哀楽の情をもたらす根源がなければ、自分という人間も存在することはできないであろう。逆に、もし自分という人間が存在しなければ、その根源から喜怒哀楽の情を取り出すものもないであろう。とするならば、その根源と自分とは、至近の距離にあるはずである。
 それにもかかわらず、自分に喜怒哀楽の情をもたらす根源のありかは知るよしもない。そこには必ず真宰ーーかくれた真の主宰者があるように思われるが、しかもその形跡を見つけ出すことは、まったく不可能である。それがはたらきをもつことは、疑う余地のない事実でありながら、しかもその形を目に見ることはできない。その事実は存在しながら、それを示す形がないのである。(p.30:第二 斉物論篇)

真の主宰者、真宰。
形がなく、人の目ではとらえることもできないもの。でも、そういった存在がたしかにある、ということは肌感覚として納得できる。天や自然、道などがそうなんだろうな。

道枢(どうすう)

 このように彼れと是れとが、その対立を消失する境地を、道枢という。枢(とぼそ)ーー扉の回転軸は、環の中心にはめられることにより、はじめて無限の方向に応ずることができる。この道枢の立場に立てば、是も無限の回転をつづけ、非もまた無限の回転をつづけることになり、是非の対立はその意味を失ってしまう。(p.38-39:第二 斉物論篇)

回転軸を中心にはめさえすれば、是非も無限に回転して対立しない、ということ。
斉物論(=「物を斉しくするの論」)にふさわしく、万物斉同、絶対無差別に通じる考え方だなと思う。


この少しあとには、「奏でられない琴には無限の音がそなわっている」「演奏をはじめると道がそこなわれる」「いくら多くの音を奏でても、それは琴に秘められた無数の音の一部分でしかない」という記述もあって、ん〜…と悩んでしまうのだけれど(笑)。

心斎

心を自然のままの状態におくこと。いっさいを抱擁する無限の可能性の状態におくこと。

顔回からの問いに答える孔子の言葉として書かれているのがこちら。

「まず、お前の心を一つにせよ。耳で聞かずに心で聞け。いや、心で聞かずに、気で聞け。耳は音を聞くだけであり、心は物に応ずるだけのものにすぎない。これに対して、気というものは、みずからは空虚(うつろ)の状態にあって、いっさいの物を受け入れるのである。道というものは、この空虚にだけ集まってくるものだ。この心の空虚の状態が、ほかならぬ心斎だよ」(p.96:第四 人間世篇)

僕が小学生のころ、毎年夏になると家族で飯盒炊爨にでかける沢があった。食べて遊んでひとだんらくついたとき、一人で河原にねそべって真上を見るのが好きだった。水の音と風の音と鳥の声とを感じ、流れていく雲をぼーっとながめている時間。いま考えるとあのとき心斎にいたのかもしれない。

物と春をなす

衛の国に住む哀駘它(あいたいだ)という人物についての話。
醜男で、主張もせず他人に同調ばかりしていながら、君主までがその人となりにひかれる、という不思議さ。

哀公から問われた孔子の言葉として次の発言がある。

運命を自分に調和させて快適なものとし、つねに喜びをおぼえさせるものとして、日夜間断なく物と接しながら、いっさいの物を春のような暖かい心で包むべきでありましょう。これこそ、あらゆる物に接しながら、心のうちになごやかな春の時をもたらすものであります。このような心境にあるものを、『完全な才能』の持ち主というのです。(p.140:第五 徳充符篇)

「万物を春のように暖かく包み、すべてをそのままでよしとして是認すること」が、物と春をなす、ということなのだとか。

この徳充符篇には、さらに恵子に対する荘子の言葉として「好悪の情によって、自然から与えられたわが身を傷つけないことだ」という台詞も登場する。ここもまた味わい深い。

真人

上古の真人は、生を喜ぶことを知らないし、死を憎むことも知らない。この世に生まれ出ることを選ぶのでもなく、死の世界にはいることを拒むこともない。ただゆうぜんとして行き、ゆうぜんとして来るだけである。生のはじめである無の世界を忘れることはないが、そうかといって生の終わりである無の世界だけを求めることもない。与えられた生は喜んで受けるが、これを返すときも未練を残すことがない。このような態度を「はからいの心をもって自然の道をすてず、人為をもって自然のはたらきを助長しようとしない」というのであり、このような境地にあるものを真人とよぶのである。(p.150-151:第六 大宗師篇)

大宗師篇では、真人(しんじん)という存在について書かれている。特に、この箇所は「運命随順」という思想として知られているのだとか。

あと、真人の存在については、他にもこんな風に形容されている。

  • 不幸な運命に見舞われても逆らうことがなく、たとえ成功してもこれを誇ることがなく、万事を自然のままにゆだねて、はからいをすることがない
  • 眠るときは、眠ることに安んずるために、夢を見ることがない。
  • その表面はいちおう世間と同調するようにみえるが、しかし徒党を組むようなことはしない。
  • すべて自然に従うために、その知恵が足りないようにみえるが、しかし他人の知恵を借りるようなことはない。
  • つねに孤独の境地を楽しんでいるが、そうかといって孤独に固執するものでもない。

坐忘(ざぼう)

顔回と孔子とのこんなやりとりが書かれている。

顔回はまた孔子にあい、「私にも、一つの進境がありました」と告げた。孔子が「それは、どのようなことかね」とたずねると、顔回は「私は坐忘ができるようになりました」と答えた。
 (略)
「自分の身体や手足の存在を忘れ去り、目や耳のはたらきをなくし、形のある肉体を離れ、心の知をすて去り、あらゆる差別を越えた大道に同化すること、これが坐忘です」 (p.183:第六 大宗師篇)

いったいどうすればこんな境地に至るのだろうかとため息がでるが、そこに特別な修養や修行はない。無為のまま一挙に道に達する、というのが荘子の考えなのだ。

まとめ

以上、読書会の話も含めて『荘子』内篇のなかで気になった言葉を7つとりあげた。

無為自然を旨とする荘子の教えなので、きばって何かをするというのも合わないかもしれないが、折りに触れて思い出すためにこの記事を作成した。次に読んだとき、どんなふうに感じるのか。自分でも楽しみだ。

ちなみに、読書会の最後に「坐忘」の話をしたところ、ヨガをやっている女性に「逆立ち」をすすめられた。家族が寝しずまったあと、こっそり何度か実践したこともここに記録しておきたい(笑)

関連情報

「荘子」参考リンク

  • 726夜『荘子』荘子|松岡正剛の千夜千冊
    • 松岡正剛さんの千夜千冊より。岩波文庫の『荘子』について書かれたもの。
  • 莊子の部屋
    • 「林語堂(Lin Yutang)氏の流麗な英文訳を日本文に転訳」したもの(訳者 樺山三郎さん)。内篇七篇と外篇の一部がネット上で公開されている。

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荘子つながり

今回の課題図書には出てこなかったが、『荘子(2)』に収められている外篇 第十九 達生篇に「木鶏」の話がでてくる。以下は、「われ未だ木鶏たりえず」という名言を残した横綱 双葉山について書いたもの。

(ほかにも、知らずしらずに『荘子』の言葉にふれていることがありそう)

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論語から暗記したい3つ+2つの句を選んだもの。

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中国古典とは関係ないけれど「なにもない」がある、というフレーズに共通点を感じたので。

*1:人物名は「そうし」、書物名は「そうじ」。読み方が違うらしい。