ヒト感!!

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『ラッセル幸福論』を肴に語りあう

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11月25日、『ラッセル幸福論』の読書会に参加した。

岩波書店発行の三大幸福論
三大幸福論 ヒルティ、アランに続けてラッセルを

この読書会では過去にヒルティとアランの幸福論も課題図書になっていたので、今回が三冊目の幸福論。これで「三大幸福論」と称される本に全て触れたことになる。

ラッセル幸福論

ラッセル幸福論は2部構成。第一部で「不幸の原因」を列挙し、第二部で「幸福をもたらすもの」を解説している。個人的には、他の2冊の幸福論よりもスッと頭に入ってきた。

本書内で特に納得度が高かった記述を、以下に少しだけ抜書きする。

第一部「不幸の原因」から

「第1章 何が人びとを不幸にするのか」で、ラッセル自身の過去の経験を語っている箇所にうなずけた。

私にも、おのれの罪、愚かさ、至らなさに思いをひそめる習慣があった。私自身にとって、私は(略)あわれな人間の見本のように思われた。次第に私は、自分自身と自分の欠点に無関心になることを学んだ。だんだん注意を外界の事物に集中するようになった。たとえば、世界の状況、知識のさまざまな分野、私が愛情を感じる人たちなどである。(p16)

「自己に対する興味」を強く持ちすぎるのは際限なく深みにはまる可能性があり、それこそが不幸を呼び寄せる原因なのだと思う。ラッセルは「もっと数学を知りたいという思い」を高めていき、「自分自身にだんだんとらわれなくなった」そうだ。

第二部「幸福をもたらすもの」から

ここでは2箇所を引用したい。

まず「第10章 幸福はそれでも可能か」で、幸福になる可能性についての概観として語られているのがこちらの言葉。

 幸福の秘訣は、こういうことだ。あなたの興味をできるかぎり幅広くせよ。そして、あなたの興味を惹く人や物に対する反応を敵意あるものではなく、できるかぎり友好的なものにせよ。(p172)

こちらは第1章のフレーズにも通ずるものがある。

そして、もう1箇所は「第16章 努力とあきらめ」の最後の段落から。

おのれの真実の姿に進んで直面しようとする態度には、ある種のあきらめが含まれている。この種の諦めは、初めのうちこそ苦痛を伴うにしても、最後には、自己を欺く人の陥りやすい失望と幻滅に対する防御──事実、ただ一つの可能な防御──を与えてくれるものである。日ごとに信じがたくなる事柄を日ごと信じようとする努力ほど、疲れるものはないし、とどのつまりは、腹立たしいものはない。こうした努力を捨て去ることこそ、確かな、永続的な幸福の不可欠の条件である。(p265)

「あきらめ」を強調したかのようなこの主張は、かなり消極的な生き方に映るかもしれない。一方、いま置かれた環境に辛さを感じている人にとって、これは有益なアドバイスだと思う。苦しみをともなう努力をやめて、真実の姿に直面する努力に切り替えられたら、きっと現状も動き出すはず。

『ラッセル幸福論』に学び、語り&飲む

読書会では、以下の2つのお題をもとに各自の考えを語り合った。

  1. 「罪の意識には何か卑屈なところ、何か自尊心に欠けたところがある」(P116)。自分の中に感じる罪の意識にはどんなものがありますか、また克服しようと努めたことを紹介して下さい
  2. 「中庸というのは、おもしろくない教義である」で始まる第16章では、努力とあきらめのバランスについて書かれています。ラッセルの言う「よいあきらめ」(p260 )で幸福を獲得するには何が大切だと思いますか? 自身の体験や実践に紐づけて語ってください

ちょっと重い投げかけだったけど、過去の体験やいま実践していることを赤裸々に吐き出しつつ、対話できたように思う。

終了後には場所を移し、ラッセル幸福論を肴に ゆる〜い話も交えながら延長戦(というなの飲み会)も楽しめた。(他メンバからはアラン幸福論への共感も出ていたので、あらためて復習しておきたい)

おまけ

読書会 会場は JR目黒駅の近く。ここ最近、最後のあがき読みをしていた珈琲茶館 集が閉まっていてびっくり。

駅前再開発のために10月後半に閉店したのだとか…。残念!