BS日テレの「久米書店」をご存じだろうか。
久米宏さんと壇蜜さんが店主&店員に扮した書店に、話題の本の著者を招くトーク番組だ。(毎週 日曜18:00~18:54放送)
外山滋比古さんの『知的生活習慣』
4月5日放送では、『知的生活習慣』の著者・外山滋比古さんがゲストだった。番組開始以来の最年長ゲストで、御年なんと91歳!(ご本人は年齢を考えないようにしているのだとか)
BS日テレ「久米書店」#51 外山滋比古・知的生活習慣
外山滋比古 - Wikipedia
外山さんが語る『知的生活習慣』の話は面白く、
- 学校で教える知識は、ただ倉庫に入れておくだけのもの
- 学んだことを生活と結びつけ、生活を通して得た知恵を生み出すことが重要だ(=工場として頭をつかう)
と力説されていた。
また、誰もが「(一人ひとりの個性にあわせた)知の巨人」を目指せばいい、という主張もすごく腹落ちした。みなが崇め奉るような絶対的な「知の巨人」的存在ではなく、各人固有の生活とリンクした「知」を極めろ、ということ。
(このあたり気になる方は、ぜひ本書を読んでみていただきたい)黒子は舞台に出ない?
さて、本エントリで取り上げたいテーマは、トーク後半で登場した「黒子(くろこ)」について。最近注目されている「コミュニティマネージャー」という役割と対比して考えてみたい。
外山さんは、若手エリート編集者から「ごいっしょに仕事がしたいと思っています」という手紙をもらい、戸惑ったという。
なぜか?
著者として多くの編集者とつきあい、自身も若いころ編集者として活動していた外山さんにとって、編集者とは「黒子」の存在に徹するものであり、著者と同じ舞台に出るとは考えてもいなかったそうだ。(「自分の名が出るのを恥じた」とまで書いておられる)
同書にはこんな記述がある。
黒子は舞台に出ない。
出るときは黒覆面、黒装束。役者ではない。
私といっしょに芝居をしましょうよ、などという黒子はいないと思っていたから、さきのような新人類の出現に戸惑う。
コミュニティマネージャーを考えてみると、コミュニティの種類によって色んな役割があるにちがいない。それでも、僕は外山さんのいう「黒子」的な活動が主なものだとイメージしている。
光があたるべきは、コミュニティのメンバーや個別活動のリーダーであり、黒子ではないという考えだ。すくなくとも、自分がコミュニティマネージャー的な役割を担うときには、なるべく黒子に徹しようとしてきたつもり。
黒子の喜び
では、「黒子の喜び」って何なのか?
外山さんの言葉を借りるとこうなる。(同書 p.82-83)
私がいまもって恩を感じている編集者は、おしなべて、心やさしく、謙虚。そっと、若い人の芽を伸ばすのを助けられたように思われるからだ。
私自身、雑誌づくりをしていとき、黒子に徹しようと思った。
(略)
判断は公正にしたい。
妙な俗世のしがらみから自由であることを心掛けた。
あるとき福原先生が、私のいないところで「彼はユニヴァーサル・フェアネスを失わない」と私のことをほめて下さったことを、あとで人伝にきいて、わがことなれり、といった気持ちになった。
黒子の喜びである。
この発言は、編集者として一つの作品(=雑誌)をつくっていく際、執筆者とどう向き合うか、という観点での意見だと思う。と同時に、地域コミュニティや企業内コミュニティ、特定テーマのオンラインコミュニティの世話人(=コミュニティマネージャー)にも成り立つのではないだろうか。
舞台に出るのではなく、役者に光をあてる。
ときには、劇場内をあたために出ていくこともあるが、そのときは黒装束で…。
そして、幕を閉じたあと、お客さん、役者、スタッフらすべての関わる人が笑顔で帰路につければ最高の喜びだ。
コミュニティマネージャーとしての自分は、そんな役割でありたいと改めて考えた。
関連エントリ
コミュニティマネージャー関連
そのものずばりのタイトル!
ブラ・トヨさんのブログ 2012年1月の記事。
http://8quest.net/social/8708quest.net
以下は、当ブログの過去エントリ。
外山滋比古さん関連
外山滋比古さんの著書は『思考の整理学』以来、何冊も読んできたので、このブログでもたびたび紹介している。言葉の使い方、選び方がユニークでとても好き。