ヒト感!!

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『ネットコミュニティ戦略』が引き寄せた、3冊のコミュニティ本が気になる

いや、まさに、タイトルどおり。
気になる、気になる…。

(上の1冊に、下の3冊が引き寄せられてきた)

引き寄せの元本

『ネットコミュニティ戦略』

こちらが、今回の引き寄せのきっかけとなった一冊で、2001年発刊。

ネットコミュニティ戦略―ビジネスに直結した「場」をつくる

ネットコミュニティ戦略―ビジネスに直結した「場」をつくる


インターネット初期のウェブ・コミュニティに数多く携わってきたエイミー・ジョー・キム氏が、成功するコミュニティのつくり方や育て方を解説した一冊。ソーシャルメディア時代になっても通用するノウハウにあふれた古典的名著である*1


ちなみに、2014年10月の1ヶ月をかけて、Facebookグループ「コミュニティマネージャーズ・コミュニティ(CMC)」内のイベントで、この本を課題図書としたオンライン読書会を実施中である。ご興味のある方は、CMCへご参加を!(なお、入会の際は入会フォームへもあわせてご登録を!

引き寄せられた3冊のコミュニティ本

『これまでのビジネスのやり方は終わりだ』

これまでのビジネスのやり方は終わりだ―あなたの会社を絶滅恐竜にしない95の法則

これまでのビジネスのやり方は終わりだ―あなたの会社を絶滅恐竜にしない95の法則

  • 作者: リックレバイン,ドクサールズ,クリストファーロック,デビッドワインバーガー,Rick Levine,Doc Searls,Christopher Locke,David Weinberger,倉骨彰
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞社
  • 発売日: 2001/03
  • メディア: 単行本
  • 購入: 1人 クリック: 8回
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こちらも 2001年発刊。"THE CLUETRAIN MANIFESTO"(クルートレイン宣言)としてネット上で話題になった文書を書籍化したもの。*2


「市場の本質は、会話であり対話である」と訴えるこの宣言には、95のテーゼが設定されている。

1.市場とは対話の積み重ねである。
2.市場を構成しているのは、顧客層の統計的区分ではなく、人間だ
3.人間同士の会話には、人間的な響きがある。人は自分の肉声で会話を交わす
 (略)

目につくキーワードは、「市場」「人間」「対話」「会話」「肉声」だ。

『Webコミュニティでいちばん大切なこと』

Webコミュニティでいちばん大切なこと。 CGMビジネス“成功請負人”たちの考え方

Webコミュニティでいちばん大切なこと。 CGMビジネス“成功請負人”たちの考え方

  • 作者: 水波桂,平尾丈,片岡俊行,斉藤徹,古川健介,伊藤将雄,大迫正治,原田和英
  • 出版社/メーカー: インプレス
  • 発売日: 2007/12/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • 購入: 5人 クリック: 204回
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こちらは 2008年発刊。
ビジネスツールとしてのWebコミュニティづくりについて、国内のそうそうたるメンバが筆をとったもの。


「はじめに」には次の言葉がある。

Webコミュニティの根底にあるものは、あくまでも人と人のコミュニケーションである。人間の命題ともいえるコミュニケーションをどう味付けし、おもしろくするか。それがWebコミュニティの肝なのだ。

やっぱり「人」だし、「コミュニケーション」なのだ。

『ツイッターで学んだいちばん大切なこと』

そしてこちらは 2014年、つい最近でたばかりの一冊。

ツイッターで学んだいちばん大切なこと――共同創業者の「つぶやき」

ツイッターで学んだいちばん大切なこと――共同創業者の「つぶやき」


著者は、twitter の共同創業者である ビズ・ストーン氏だ。
ツイッターが爆発的なサービスになった理由が語られているようだ。


パラパラ読んだなかで心にひっかかってきたのは、「人」へのこだわりが書かれた次のような箇所。

ソーシャルメディアとは技術の話だけでなく、それを使う人についても考えなくてはいけないのだとわかっている人物を必要としていた。そして僕がそれに適任だと考えたのだ。(p.12)

人は、ふさわしいツールを手にすると、じつに驚くようなことを成し遂げられる。自分たちの人生を変えられる。世界を変えられる。(p.16)

僕の役割として思い描いていたのは、ブロガーに人間性を加えることだった。ブロガーの顔である公式ブログに「ブロガー豆知識」の項目を立ててヘルプコーナーを作り、サービスの特徴をまとめる。ブロガーに声とブランドを与えようと思っていた。(p.23-24)

つながりあった社会の本当の意味での希望は、人と人が助けあうことにある。
人は基本的に善だ。僕らがつながるのは、互いに人の力になるためだ。協力しあうためだ。それ以上いい理由があるだろうか?(p.309)

(とりあえず現時点での)まとめ

というわけで、『ネットコミュニティ戦略』を読むことで引き寄せられてきた3冊、それぞれ「人」に対する着眼で共通点がありそうだ。今後、楽しみながら読みすすめていこう。

で、コミュニティに関する気付きがあればまた投稿したい。

*1:巻末の解説を書いているのは、当時マッキンゼー・アンド・カンパニー・ジャパンに所属していた勝間和代さん!

*2:原著の全文は、こちらで公開されています → http://www.cluetrain.com/book/

全生庵で坐禅体験 〜「いま」を味わい尽くす〜

以前から気になりつつも未体験だった坐禅。

先日『坐禅のすすめ』を読んでますます熱が高まり、著者・平井正修さんが住職をつとめておられる臨済宗・全生庵の「初心者坐禅会」に参加してきた*1




 


今回の「初心者坐禅会」には、40人弱の人が参加していた。僕のように一人で来ている人も多かったが、家族やカップル、友人グループで現れる人もいて、比率にすると半々くらいか。くつ下を脱ぎ、荷物を棚におき、貴重品だけをもってお堂に入る。みな、これから始まる体験に緊張している様子。早く着いた人から、座蒲が置いてある場所に座っていくのだが、せっかくなので空いていた最前列に座らせてもらった。


「初心者坐禅会」では、毎週開催されている「日曜坐禅会」とほぼ同じメニューを行うそうだ。
会の進め方を簡単に説明していただいた後、摩訶般若波羅蜜多心経など3つのお経を読経する。その後、坐り方や警策(けいさく)*2の受け方などの解説(通常はこの時間で住職講話が入る)、それから坐禅2回、読経、三拝、茶礼…とつづく。解説までは若い僧侶のかたにしていただき、平井住職は坐禅から登場された。


実際に坐禅を体験して感じたことを3つ記録しておこう。

坐禅を体験して感じたこと

声を出すことの気持ちよさ

坐禅前に3つ、坐禅後に2つのお経を唱えた。*3

当日お借りした資料に読みがな入りでお経が記載されており、木魚に合わせた規則正しいテンポで1字ずつ読み上げることもあって、初心者の僕にもすんなりと入っていけた。


こんなに連続して大きな声を出しつづけることは日常では少なくなっているため、読経している途中からだんだん気持ちよくなってきた。みなで同じ言葉を発している一体感、耳に入ってくるそれぞれの声や息づかい、お堂の空間にこだまする響き…。読経の終盤では、みなより少し低めに声を発して音の幅をつくったり、ちょっとしたハモリを楽しんだりする余裕も生れていた。


お経それぞれの意味を理解すればさらに素晴らしい時間になるのだろうけど、僕にとっては純粋に大きな声を出しつづけることが気持ちよい体験だった。

数息観で「いま」を味わう

坐禅の最中は、鼻から息をゆっくりゆっくりと吐いていく。その際に、「ひとーつーーーー」「ふたーーつーーーーー」と頭の中で唱えながら、ほそくながく息を吐き続けていく。数が10まできたらまた1に戻って、坐禅をしている間これをずっと繰返していくのだ。この呼吸法を、数息観(すそくかん)という。


坐禅中の心構えとして、過去におきたことを思い出してクヨクヨ悩まない、未来に起きるかもしれないことをあれこれと心配しない、「いま」「このとき」を感じることが大切だ、との解説を受けた。とはいっても、「考えないようにしよう!」と考えても、しないことを実践するのは難しい。そこで、この数息観によって、数を数え、息を細く長く吐くことに集中し、余計な考えが去来するのを防ぐのである。


実際、今回の坐禅中にも色んな想いが頭をよぎったが、息継ぎをし、次の数を念じ始めるときには数息観に集中するため、浮かんだ想いから離れることができた。この「いま」を味わい尽くす、という感覚を得ることが、坐禅をすることの一番の価値なのかなと感じた。

心が引き締まる所作の数々

坐禅といえば、和尚さんが「喝ーー!」と叫びながら弛んでいる人の肩を叩く。そんなイメージがあったが、実際にはそんなに荒々しいものではなかった。
「警策」は、坐禅中に心を引き締めたい人が、合掌を合図として自らお願いをして背中を打ってもらうものなのだとか。僕もお願いして、警策をいただいた。事前説明を聞いて軽く打つのかと油断していたら意外と痛かったのだが、背中がピリピリとしてその後は集中できた。それにしても、合掌で合図を送り、正対後にあらためて互いに合掌をして「与える」「いただく」関係を確認し、終わったあとにまた合掌をして感謝を表す、という所作が美しいなと感じた。


坐禅の後も、「三拝」(膝まずいて額を畳につけ手の平を耳まであげる最敬礼)を素早く行なったり、「茶礼(されい)」で茶椀やお菓子を手早く配ってくださったりと、とにかく無駄がなくきびきびとした所作には、清々しさを感じた。



たった一度の体験だけれども、禅の教えの一端を教えていただき、みずから体感できたことは大きな収穫だった。

平井住職が著書で書いておられた次の言葉がずっと気になっていたので…。

「ゼロ」から「一」に踏み出す場所。私は自分の寺の坐禅会をそんなふうに捉えています。
どんなに坐禅についての知識が豊富だろうと、やってみないことには「ゼロ」でしかありません。(略)大事なのは、ゼロでは判断のしようもないということ。「一」に踏み出してこそ、判断ができるということ。そのことを実感することではないでしょうか。(p.18)


「一」に踏み出した今だからこそ、谷中の全生庵に足繁く通うのは難しいとしても、自宅であるいは地元で坐禅のエッセンスを取り入れて「いま」を味わい尽くす時間をとっていこう。そう心に決めることができた。

関連リンク

*1:全生庵ページから事前予約が必要です。月1回開催されていますが最近は人気があるため翌月分はすぐいっぱいになるようです。

*2:臨済宗では「けいさく」、曹洞宗では「きょうさく」と呼ぶのだとか。Wikipedia解説より

*3:当日読んだお経はこちら(テキスト)から。一部は動画もあるそうです

【質問】あなたは「コミュニティマネージャー」ですか?

「結局、コミュニティマネージャーってどんな人なんだろう……」

最近開催されたいくつかのイベントをきっかけに、コミュニティ関連本をむさぼるように読んで、そんなことを考えた。


(本棚にならぶコミュニティ関連本)

コミュニティマネージャーとは?

考えるようになった直接のきっかけは、7/28に開催された「コミュニティマネージャーミートアップ 2014夏」。

1月第4月曜に行われた「コミュニティマネジャー感謝の日」*1からちょうど半年後の7月28日に、こんな趣旨(↓)で企画されたイベントだ。

ソーシャルメディアの利用が急拡大する中で、組織やブランドのソーシャルメディアの運用を担う「コミュニティマネージャー」という役割が注目を集めています。また、ソーシャルメディアが普及する以前から存在する家族、同窓会、サークル、NPO、プロフェッショナル・グループ、ユーザーグループ、患者会、選挙キャンペーン、デモに集まる人々など、何らかの興味や所属、目的があって生まれるあらゆるグループを運営する方々も「コミュニティマネージャー」としての役割を担った方々です。

さまざまなコミュニティを運営している人同士の情報交換・交流の場として、有志の実行委員会が中心となり、「コミュニティマネージャー・ミートアップ」を開催いたします。 (Peatix:2014夏コミュニティマネージャー・ミートアップ 案内文 より)


行く気まんまんだったのに残念ながら参加できず、詳細なtogetterまとめや 友人のFacebook投稿 等で当日の様子の理解につとめた*2
screenshot
(resignerさん作、臨場感あふれる秀逸なまとめ。ありがたや!)


その後、イベント当日の振り返り会が開かれることを聞きつけ、図々しくも参加させてもらった(笑)。
勢いで、その翌週の「コミュマネのこれからを考える会」にも!!


で、直接・間接に話を聞き、自宅にあったコミュニティ関連本を再読するうちに、モヤモヤと感じていた疑問がはっきりと言葉になってきた。


“みながイメージする「コミュニティマネージャー」ってバラバラすぎ!”

コミュニティの類型・分類

イベント直前の 2014年6月に出版された『コミュニティマネージャーの仕事』には、「コミュニティの類型」として次のマトリックスが示されている。

主体×形態


同書は、図の第一象限「ブランドコミュニティ」を対象としている。なかでも、“ソーシャルメディア時代に、多くの企業が運営を始めているTwitterやFacebookなどのソーシャルメディア公式アカウントの運営主体者となる「コミュニティマネージャー」の仕事に焦点を当て……”と、潔く言い切っている。


企業においても、“ソーシャルメディア公式アカウント運営者”という意味で「コミュニティマネージャー(Community Manager)」という職種や肩書が増えてきており、徐々にこの役割は市民権を得てくるのだろう。

コミュニティマネージャーの仕事

コミュニティマネージャーの仕事



一方、僕自身は 企業内で社員向けQ&Aコミュニティの立上げ・運営を長く経験してきた。また、高校のクラス友人や、大学のサークル仲間、子どもの少年野球チーム父兄、勤め先での部署をまたいだ読書会、人間力を学ぶ読書会、趣味の音楽でつながっている仲間、町内会などなど、数多くの「コミュニティ」に参加しており、それぞれのコミュニティで、幹事や世話人、スタッフのような役割を担うことも多い。


これらのコミュニティでは、オンラインだけ、あるいは、オフライン(フェイス・トゥ・フェイス)だけのやりとりに特化することは少なく、両方を組み合わせたうえで、どうやってつながりを豊かにしていくか、が大切なこと。なので、上図の第一象限以外についての分類にはやや違和感をもってしまうのだ*3

拠りどころ×求めるもの

そんなことを考えながら、他のコミュニティ関連本を何冊か読んでいるうちに、2011年に発刊された『ソーシャルメディア進化論』にたどりついた。

ソーシャルメディア進化論

ソーシャルメディア進化論


同書では、企業が主催するブランドコミュティやファンコミュニティの運営を中心に語られているのだが、ここに出てくるソーシャルメディア(コミュニティ)の分類が個人的にはとてもしっくりきた。「拠りどころ」×「求めるもの」のマトリックスとして下図のように定義されている。


縦軸の「拠りどころ」とは、何でつながるのかを指す。趣味や想いなど特定の価値観(テーマ)でつながるのか、現実生活の交友関係などでつながるのか、ということだ。横軸の「求めるもの」とは、人々が集まる目的である。便利で有用な情報源を求めるのか、居心地や心の距離を縮めることを求めるのか、である。


こちらは、オンライン、オフラインなどのコミュニケーション手段によらずコミュニティを分類しているので、同窓会やサークル、職場コミュニティなども、マトリックス上のどこかにマッピングできる*4。僕には、この分類はしっくりきた。

あなたは「コミュニティマネージャー」ですか?

このエントリを読む人には、先ほどあげた同窓会やサークル、職場コミュニティなどで幹事や世話人的に関わっている人も多いにちがいない。誰かに「コミュニティマネージャー、やってね!」と依頼されたわけでも、自分から宣言したわけでもないのに、ついつい関わっているコミュニティ全体がうまく回るかが気になってしまう。その結果、「イベントやろう!」と提案してみたり、逆に、名簿をメンテしたり手順をまとめたりと黒子的な作業をかってでたり…。


「コミュニティマネージャー」という言葉は、単純に考えれば「コミュニティ」を「マネージする人」なわけで、もとの語感としては色んな種類のコミュニティの運営に携わる人、という意味でよいだろう。


最近では、前述したように「企業のソーシャルメディア公式アカウント運営者」(=狭義のコミュニティマネージャー?)の存在感が高まる機運がある。それ自体は歓迎したい動きなのだが、そうなればなるほど「コミュニティの運営にかかわる人全般」(=広義のコミュニティマネージャー)をうまく表現する言葉が欲しくなる。「コミュニティ」×「デザイナー、コーディネーター、ビルダー、ファシリテーター、幹事、黒子(笑) etc.」。なんだか、どれもちょっとずつ違う感じがするのだ…。


そんなわけで、コミュニティ運営に携わっているあなたに聞いてみたいのは次の2つの質問。

  • いま、「コミュニティマネージャー」と呼ばれていますか?
  • 今後、どんな肩書・役割で呼ばれたいですか?


僕自身は、「コミュニティ世話人」あたりが心地よいなと思っている。

関連情報

コミュニティ・マネージャーズ・コミュニティについて

Facebook上には「コミュニティ・マネージャーズ・コミュニティ(CMC)」というグループがあり、僕もメンバとして参加している。
https://www.facebook.com/groups/cmcjp/


本グループの設立趣旨について、現在明文化されているのは以下の文章。

ソーシャルメディアツールを活用して「コミュニティ」を運営する方にとって効果的なスキル、ツール、こつ、成功・失敗事例などを共有し、相互交流を通じて、それぞれの豊かなコミュニティ運営に役立てる場づくりを目指す有志により運営されているグループです。


先日のイベントやアフター会合の結果をうけて、この文言を見直す可能性も話し合っているところだが、もし現時点で、広義の「コミュニティマネージャー」に興味がある方がいらっしゃれば、ぜひお声かけのほどを。

関わるコミュニティを幸せにし、あなた自身が楽しくなる方法を一緒に考えましょう!

*1:2010年アメリカで提唱されて始まった「コミュニティマネージャー感謝の日」は、日本でも2013年1月から始まった。詳しくは、このムーブメントを日本へ持ち込んだ市川裕康さんのブログを!

*2:主催者のお一人 市川さんのブログ記事はとても参考になりました!

*3:オンラインもオフラインもコミュニケーション手段でありコミュニティそのものの類型ではない。また、企業内でも個人中心のコミュニティはあるのだ

*4:もちろん、情報収集と関係構築の両方を求めるため、象限をまたぐことはあるだろうけれど

「寛にして栗」〜尚書の九徳より

山本七平氏の『人望の研究』で興味深い言葉に出逢った。


江戸時代はもとより明治・大正・昭和初期まで、朱子学の入門書として読まれた『近思録』という書籍がある。この中で「九徳最も好(このま)し」として紹介されているのが、中国古典・『尚書』(『書経』の別名)に登場する「九徳」。

行為に現れる九つの徳目を、舜帝の臣・皐陶(こうよう)が舜帝の面前で語ったもの」なのだとか。



  • (一)寛にして栗(寛大だが、しまりがある)
  • (二)柔にして立(柔和だが、事が処理できる)
  • (三)愿にして恭(まじめだが、ていねいで、つっけんどんでない)
  • (四)乱にして敬(事を治める能力があるが、慎み深い)
  • (五)擾にして毅(おとなしいが、内が強い)
  • (六)直にして温(正直・率直だが、温和)
  • (七)簡にして廉(大まかだが、しっかりしている)
  • (八)剛にして塞(剛健だが、内も充実)
  • (九)彊にして義(強勇(ごうゆう)だが、義(ただ)しい)

九徳 - *ListFreak


この言葉がいわんとしているのは、相反する2つの要素を兼ね備えることが重要だ、ということで、その状態をもって九徳という。


逆にいえば、1つ目の「寛にして栗」も“寛大で、しまりがない”という前半しか満たさないのはよくある話であり、この状態だと「不徳」になる。全てが一方だけなら「九不徳」だし、前半も後半もできていなければ(例:寛大でないうえに、しまりもない)「十八不徳」になる、というのが山本氏の解説だ。自らを省みると、(一)(二)(七)の後半、(四)の前半、(八)(九)の両方など、まだおぼない行動・態度も多い…。


この世に完全完璧な人間などいない。とはいえ、生きている間に少しでもそこに近づきたいとは思う。
この9つの徳目は、記憶しよう。

読書メモ(詳細)より

山本七平氏は、著書全体を通じて「人望=徳+才能」だと結論づけている。
このうち「才能」については天賦のものという意味ではなく、「自分なりの行動基準(ものさし)」だとしている。すなわち、才能を発揮するためには「常に一定して変わらぬ法則に照らして行う方法」を獲得することが大事、ということらしい。あきらめず身につけていきたい。

関連リンク

九徳をブログで紹介されている方々。


以下は、本ブログ中の関連エントリ。

  • 寛と厳(2012年1月25日)
    • 『宋名臣言行録』収録の「寛にして畏れられ、厳にして愛せらる」、こちらもしみじみと味わい深い。
  • 「幸せになりたい」けど「間違いを犯す」生き物(2013年7月21日)
    • 有川浩さんの語る「寛容」についての考え。昨今のネットバッシング風潮を見て、本当に必要だなと思う。

追記

9年前(2005年)に、別の本で同じフレーズに出会って旧ブログにアップしていたことに先ほど気づいた。ありがとう > ZenBackさん(笑)

感性は当時から変わっていないんだなと納得すると同時に、学びがゆるいなぁと反省。


なお、出典は谷沢永一さんの『名言の智恵 人生の智恵』。文中で引用されている訳は、山本七平さんのものだった!

追々記

2021年10月に読書会人間塾の課題図書として『書経』を読み、九徳のフレーズに再会ました(人生三度目)。今回は、書経そのものを読んだことで、君主の心得だけではなく臣下の任用(適材適所)について語られた節であることを発見! やはり原典にあたらないといかんですね。

note.com

背後にある善意を見つける 〜本物の「信頼」を育てる方法

前回エントリで紹介した、岩井俊憲先生の『マンガでやさしくわかるアドラー心理学』を読み終えた。

(発売1週間で、すでに2万5千部発行なのだとか!)


同書のなかで、「信頼」について腹落ちする定義に出逢ったのでご紹介したい。


それは、「良い人間関係を築く4つのガイドライン」として紹介されている、以下の解説文だ。

(1)尊敬……人それぞれに年齢・性別・職業・役割・趣味などの違いがあるが、人間の尊厳に関しては違いがないことを受け入れ、礼節をもって接する態度
(2)信頼……常に相手の行動の背後にある善意を見つけようとし、根拠を求めず無条件に信じること
(3)協力……目標に向けて仲間と合意できたら、共に問題解決の努力をすること
(4)共感……相手の関心、考え方、感情や置かれている状況などに関心を持つこと


「信頼」と「信用」のちがいとして、「無条件に信じる」か「条件付きで信じる」かというのはよく言われること。
一方で、定義の前半にある「相手の行動の背後にある善意を見つけようとし」という観点は、今まで考えたこともなかった。でも、考えてみると「あぁ、なるほど!」という強い納得感が得られた。


例えば、ある人が厳しい言葉をなげかけたり、つれない素振りを見せたり、やる気のない態度をとったり、予想もできない行動をとったとする。それでも、その人に対する「信頼」を強くもっていれば、落胆したり反発したりする前に、「きっとこの行動の背後には何か意味があるにちがいない」と感じるだろう。本物の「信頼」というのは、軽々しく「裏切られた!!!」と嘆くようなものではなく、岩井先生が同書で書いておられるように決意や忍耐を必要とするものなのだ。


見方を変えれば、「相手の行動の背後にある善意を見つける」ことが、本物の「信頼」を育てるための有効な方法なのではないか。相手が子どもだろうが、年下だろうが、過去に嫌なやりとりをされた人だろうが、まずはその人格を尊敬&尊重する。その上で、背後にきっとあるはずの善意を見つける。


こんな行動をとりつづけることで、まず自分から「信頼」を与える人でありたい。、
そしてそれを積み重ねていけば、いつか本物の信頼が得られる人になるだろう。
「背後にある善意を見つける」ことは、その第一歩に違いない。意識して実践しよう。

関連エントリ