養老孟司さんの『無思想の発見』「第二章 だれが自分を創るのか」より。
自分を創る作業の典型を「修行」だと説明したあと、こんな風に書かれている。ちょっと長いけど1段落分を引用。(p.53-54)
叡山を走り回ったら、自分ができるのか。そんなことは知らない。しかし伝統的にそうするのだから、できるのであろう。少なくとも、ふつうのお坊さんではなくなるはずである。それだけのことだが、人生とは「それだけのこと」に満ちている。私は三十年、解剖をやった。それだけのことである。そのあと十年、本を書いた。それだけのことである。自分とは「創る」ものであって、「探す」ものではない。それが大した作品にならなくたって、それはそれで仕方がない。そもそも大したものかどうか、そんなこと、神様にしかわかるはずがない。それがわかったら、もう個性とか、本当の自分とか、自分に合った仕事とか、アホなことは考えないほうがいい。どんな作品になるか、わかりゃしないのだが、ともかくできそうな自分を「創ってみる」しかない。そのために大切なことは、感覚の世界つまり具体的な世界を、身をもって知ることである。そこで怠けると、あとが続かない。
できそうな自分を「創ってみる」、って表現に妙に納得。
- 作者:養老 孟司
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2005/12/06
- メディア: 新書