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「死」の何時間前に「生」を悟る? 〜『イワン・イリッチの死』を読んで

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トルストイといえば、『戦争と平和』の作者として有名なロシアの文豪。
これまで何度も映画化されている『アンナ・カレーニナ』という著書もある。


そんなトルストイの作品の1つ『イワン・イリッチの死』を、読書会・人間塾の10月課題図書として読んだところ、15年前の個人的体験と強烈にシンクロすることになった。

『イワン・イリッチの死』(トルストイ 作 米川正夫 訳)

いきなりの訃報

本編わずか102ページ(解説を含めても105ページ)の薄い文庫本、…にもかかわらず内容がとっても重たい。なにしろ、物語は主人公の訃報から始まるのだ。

「諸君!」と彼は言った。「イワン・イリッチが死んだよ。
「へえ?」
「ほら、読んで見たまえ。」まだインキの香のする新しい新聞をさしのべながら、彼はフョードル・ワシーリエヴィッチにそう言った。
(p.3)

第三者視点で通夜(弔問?)のシーンが描かれ、本人と家族や同僚・友人らとの関係が冷えきっていたことが分かる。

読むのも辛くなる回想シーン

その後、本人視点での長い長い回想が始まる。法律学校を卒業し、予審判事になって、結婚して…あたりまでは順風満帆だったイワン・イリッチ。

ところが、より高い報酬を求めて新転地へ赴任し、手に入れた新居のリフォームをする際、はしごから落ちるケガをしたのがきっかけで、じょじょに体調が悪化。しまいには病いに伏してしまい、ついには1人で起き上がることもできなくなる。

そして、家族や周りの人たちとの関係もどんどん悪化していき、精神的にも暗く、とげとげしくなっていく。ここへ至る描写が、とても痛々しいため、読んでいるこちらの具合まで悪くなってしまいそうだった。


その後も、恨み、猜疑心、虚しいやりとりが綴られていくのだが、ラスト3ページで劇的な展開をみせる。

「死」を目前にしての悟り

死を目前にしたシーン、こんなことが起きる。

 それは三日目の終りで、死ぬ二時間まえのことであった。ちょうどこのとき、小柄な中学生がそっと父の部屋へ忍び込んで、寝台のそばへ近よった。瀕死の病人は絶えず自暴自棄に叫び続けながら、両手を振り回していた。ふとその片腕が中学生の頭に当たった。中学生はその手をつかまえて、自分の唇へもってゆくと、いきなりわっと泣き出した。(p.100)

純粋な心で父を思う息子 ワーシャが、自らの手に接吻したのを感じて、イワン・イリッチの中で何かが変わる。

 すると、とつぜん、はっきりわかったーー今まで彼を悩まして、彼の体から出て行こうとしなかったものが、一時にすっかり出て行くのであった。四方八方、ありとあらゆる方角から。妻子が可哀そうだ。彼らを苦しめないようにしなければならない。彼らをこの苦痛から救って、自分ものがれねばならない。『なんていい気持だ。なんという造作のないことだ』と彼は考えた。(p.101)

家族を苦痛から救うこと、そして自分も楽にすること、を決めたとき、ついに生への執着が消えて悟りのような境地にいたる。

 古くから馴染みになっている死の恐怖をさがしたが、見つからなかった。いったいどこにいるのだ? 死とはなんだ? 恐怖はまるでなかった。なぜなら、死がなかったからである。
 死の代わりに光があった。
 「ああ、そうだったのか!」彼は声にたてて言った。「なんという喜びだろう!」(p.102)

この2時間後、息を吸い込む途中で身を伸ばし、イワン・イリッチは死へと旅立っていく。

読書会でのこと

この本を題材にした読書会の場で、僕は、父の死に立ち会ったときのことを話した。

死の瞬間の疑似体験

今から15年前、実家から離れて暮らす僕は、明け方に父の危篤の知らせをうけて急ぎ帰郷した。父が亡くなる3日前のことだ。

幸いその日は持ち直し、病室で父に会うことができたけれど、その後も容態は一進一退がつづく。

そして3日目の朝早く、家族4人で集まるなかで最後の瞬間を迎える。その直前。苦しそうな時間帯がつづくなか、みなで手をとり身体をさする。気がつけば、僕らは泣きながら「ありがとう、ありがとう」と繰り返し父に感謝を伝えていた。息をひきとったのは2時間ほどたった頃だっただろうか。

今回のイワン・イリッチのラスト3ページの描写は、「父もこんな風に、死や生について感じていたのだろうか」と疑似体験させてくれるものだった。

読むのはしんどかったけれど、最後まで読んで読書会に参加してよかった。そんな風に思える本との出会いだった。

「自己一致」している人の存在

本書の主人公 イワン・イリッチは、死の2時間前になって「生」への執着からのがれて何かをつかんだようだ。

そのきっかけになったのは、息子で中学生のワーシャと、食堂番で下男のゲラーシムという2人の存在だった。読書会 塾長の小倉広さんは、この小説の登場人物のうち、この2人だけが嘘偽りなく主人公に接していた、という。嘘がなく自然体でいる「自己一致」した2人だった、と。

その2人とふれた結果、主人公もついには自己一致し、「生」の悟りにいたったがゆえに「死」に向かうことができたのだ。

ひるがえって、僕自身は「自己一致」しているだろうか。はなはだ疑問である。

「死」はまだまだ先だと思っていないだろうか。実は、その準備ができていないから苦しみを感じているのではないか。


人は誰でも死へ向かって歩んでいる。
いま僕は何時間手前にいるのだろう? ひょっとすると、2時間前かもしれないし、200時間前かも、2万時間、あと20万時間あるのかもしれない。

いずれにせよ、なるべく長く「自己一致」できる時間を持ちたいと思う。

おわりに

書いているうちに日付が変わった。
今日 11月2日は、亡き父の誕生日である。

こんな個人的なことを書くのもどうだろうかと迷ったが、この時期にこの本と出会い、こんな感情がおとずれたのも何かのご縁かなと思い、投稿しておきます。



(参考)レフ・トルストイ - Wikipedia

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