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不惑

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2月8日に40歳を迎えた。
四十而不惑(四十にして惑わず)となれるよう努力していきたい。


誕生日だった昨日、近くの神社で「厄除け祈願」の祈祷をしてもらった。仕事でもプライベートでも「次の世代に対して何かを遺していこう」という想いを込めて。なんだか身も心も清められた感じ。

2010/2/10追記

いただいたコメントへの返答をするにあたり、少し気になって「惑う」を辞書で調べてみた。
(以下、広辞苑 第六版より例文などを省略して引用)

まどう【惑う】

事態を見極められず、混乱して応対の仕方を定めかねる意。

①見当を失って途方にくれる。
②悩む。心が乱れる。
③とりちがえる。考えちがいをする。見まちがいをする。
④うろたえる。あわてる。
⑤髪の毛などが乱れる。
⑥(他の動詞の連用形に付いて)その状態がひどい意を表す。「寂しく荒れ惑へるに…」「目・眉・額なども腫れ惑ひて…」


一方、よく似た言葉の「迷う」を辞書で引くとこんな感じ。

まよう【迷う・紕う】

布の織目がゆるんで薄くなり、糸が片寄るのが原義。転じて、ものごとの整理がつかなくなる意。後に「まどう(惑う)」と混同。

①布の糸が乱れて片寄る。
②ものがもつれからむ。乱れる。
③あちこちへ移り動く。入り乱れる。
④道がわからなくなってうろうろする。
⑤入りまじって見分けがつかなくなる。まぎれる。
⑥心が定まらず、途方にくれる。決断がにぶる。心がぐらつく。
⑦死人の霊が妄執のために成仏できない。
⑧誘惑されて、判断力を失う。
⑨(「まどう(償)」との混同によって)償う。弁償する。


ちなみに、こんな説もあるみたい。

新刊書評『身体感覚で「論語」を読みなおす。』 (プレジデント 2010年1.18号掲載:文=内田樹さん)

「惑」という文字はかなり後代に普及したものであり、孔子の時代では同音の別字が使われていた可能性が高い。安田さんはそう推理する。そして、音韻の類似性からこれは「惑」ではなく、「或」ではないかと推測するのである。


「或」は「戈」を以て「境界」を画定することである。だから、「口」で囲むと「國」になり、「土」をつけると「域」になる。「或」とは「分けること、すなわち境界を引くこと、限定すること」である。「私はこのような人間である」という自己限定が「或」である。だとするなら、「不惑」とは「『そんなふうに自分を限定しちゃいけない。もっと自分の可能性を広げなきゃいけない』という意味」になる。

「四十歳になったからこそ、自分の枠をとっぱらえ!」ってことか。なるほど、こちらを頭におく方が、四十代の景色は明るく、楽しそうに感じる。


コメントいただいたおかげで、新しい知見に出会うことができた。感謝!!


身体感覚で「論語」を読みなおす。―古代中国の文字から

身体感覚で「論語」を読みなおす。―古代中国の文字から